約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言
イレーネは交番の椅子に座り、青年警察官が馬を連れて戻ってくるのをじっと待っていた。そこへ……「どうもすみません、お待たせいたしました」扉が開き、声をかけられたイレーネは振り向いた。外には一頭の栗毛色の馬の姿がある。「いえ、そんなに待ってはおりませんので」「そうですか? では早速行きましょうか?」青年警察官は『巡回中』と書かれた立て札をカウンターに立てると笑顔を見せる。「あの……でも、本当によろしいのですか? お仕事中なのに……」申し訳なくて、イレーネは伏し目がちに尋ねる。「ええ、お気になさらないで下さい。困っている人を助けるのも警察の仕事ですからね」「はい。それでは恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします」「いいえ、気にしないで下さい」そして二人は連れ立って交番を出た。「では出発しましょう」イレーネの背後から馬にまたがった警察官が声をかけてくる。「は、はい。よ、よろしくお願い……します……」生まれて初めて馬の背に乗るイレーネが声を震わせながら返事をする。「あの? どうかしましたか?」「いえ……お恥ずかしい話ですが、馬の背中に乗るのが初めてなので……こんなに視界が高くなるなんて思いもしませんでした」男爵令嬢でありながら、落ちぶれた貴族。当然イレーネは乗馬など嗜んだことすらない。「そうだったのですか? それなら大丈夫です。後ろから支えてあげますから安心して乗って下さい。逆に怖がると、馬にまでその恐怖心が伝わってしまいますよ」「え? それは本当ですか? なら平常心を保たなければなりませんね」イレーネは背筋を伸ばすと、青年警察官は笑った。「アハハハ……なかなか面白い方ですね。では行きましょう」そして、二人を乗せた馬は常歩で町中を歩き始めた。****「ここが、この町で有名な美術館ですよ。週末になると大勢の人で賑わいます。駅からは真っすぐ行けば辿り着くので分かりやすいです。その向かい側にある大きな建物は洋品店です。有名なデザイナーがいるそうですよ」青年警察官はまるでガイドをするかのように、イレーネに町の案内をしている。「あんなに立派な美術館や洋品店があるなんて、さすが『デリア』の町は大きいですね」始めは馬を怖がっていたイレーネだったが、徐々に楽しい気分になってきた。今は町並みの光景を楽しむまでになっている。「
「こちらですよ。マイスター家の邸宅は」イレーネに声をかける青年警察官。「ここが……そうなのですか?」馬に乗ったまま、目の前に広がる光景にイレーネは目を見開いた。「ええ、そうです」警察官は馬から降りると、イレーネに手を差し伸べてきた。「さ、降りましょうか?」「恐れ入ります」イレーネは警察官の手を借りて、馬から降りると改めてマイスター伯爵邸を見つめた。石の壁がどこまでも続きそうな門。フェンスの扉の奥は綺麗に芝生が刈り取られた広大な敷地。馬車が通るための石畳が続く先に見えるのは三階建ての大きな屋敷が建っている。「すごい……なんて立派なお屋敷なのかしら。以前働いていたエステバン家よりもずっと大きいわ」思わず口に出ていた。「ええ、何しろマイスター伯爵家はここ、『デリア』でも名家ですからね。何でも近々、当主交代をすると広報誌に載っていましたよ」「そうだったのですか」(それでは、これから新しい当主になる方が雇い主になるのね)そんなことを考えていると、警察官が声をかけてきた。「それでは、私はここで失礼します。まだ仕事中ですから」「お巡りさん、本当にお世話になりました」「いえ。お役に立てて良かったです」そして再び青年警察官は馬にまたがると、手を振って去って行った。「ありがとうございました」イレーネも手を振って見送る。やがて、警察官の姿が見えなくなると門を振り返った。「こんな大きなお屋敷で、私のような田舎者が雇ってもらえるかしら? 心配だわ……いいえ、そんな弱気な事を言っては駄目よ。何しろここで雇ってもらえなければ私は最悪、宿無しになってしまうかもしれないわ。ここは堂々としていないと駄目よね!」自分自身に言い聞かせると、イレーネは背筋を伸ばす。そして門を開けてマイスター伯爵家の敷地に足を踏み入れた――*** 現在マイスター家の執事を務めるリカルド・エイデンは、今大変困った状況に置かれていた。 何故なら、それは……「ですから何度も申し上げたとおり、ルシアン様はまだお仕事から戻られていないのです。どうぞお引き取り願います」リカルドは応接間のソファに居座っている女性に、必死で訴えている。「いやよ! そんなこと言って、もう何日もルシアン様にお会いできていないわ。私に会わせないために嘘をついているのでしょう?」そして女性は腕組みすると
ブリジットをエントランスまで案内している最中、突然リカルドは背後から呼び止められた。「リカルド様! 申し訳ございません! 本日納品していた品物の件で、大至急確認していただきたいことがあります!」一人のフットマンが慌てた様子で駆け寄ってきた。「え? 本日納品……? もしかして輸入した茶葉の件ですか?」リカルドが眉をひそめた。「はい、そうです。何か手違いがあったようでして……」「そうですか……」返事をしながら、リカルドはチラリとブリジットを見る。「何よ? 私なら案内は結構よ。急ぎの御用があるのでしたら、どうぞ行って下さいな」「さようでございますか? お優しいお言葉、ありがとうございます。ですが、ブリジット様お一人でエントランスまで行って頂くわけにはまいりません。君、代わりにブリジット様に付き添ってあげて下さい」「はい、分かりました。ではブリジット様。私が代わりにお供致します」リカルドに命じられたフットマンはブリジットに話しかけた。「そう? ならお願いするわ」「ブリジット様。それでは私はこちらで失礼させていただきます」返事をするブリジットに会釈すると、リカルドは踵を返して倉庫へ足を向けた――****「ふぅ……やっとお屋敷の前に到着したわ」警察官と別れてマイスター家の敷地に入ったイレーネ。10分近く歩き続けて、ようやく扉の前に到着した。「まぁ……それにしても、マイスター家はお屋敷だけでなく扉もとても大きいのね……どこかにドアノッカーは無いかしら?」扉付近をキョロキョロしていたイレーネ。すると、突然目の前の扉がゆっくり開かれた。「「え?」」すると、ちょうどフットマンに連れられてエントランス前に立っていたブリジットと偶然対面した。ブリジットは目の前に立っていたイレーネを値踏みするかのように上から下までゆっくりと見つめ……口元に意味深な笑みを浮かべた。(随分貧しい身なりね……ここのメイドかしら? 正面から入ってくるなんて図々しい女ね)外見が美しいのが気に食わない。「ちょっと、ここはあなたのような身分の者が気安く出入りしていい場所じゃ無いわよ? 入るなら、せめて裏口からにしたらどうなの?」するとその言葉にイレーネは目を見開いた。「まぁ、そうだったのですか? どうりで立派な入り口だと思いました。初めてこちらにうかがったものでし
「え……? リカルド様にですか?」いきなり、この屋敷の執事であるリカルドの名前が見知らぬ女性の口から出てきたのでフットマンは困惑した。一方のイレーネも自分の言葉足らずなことは自覚していた。ただ、彼女がこのような言い方をしたのには理由があったのだ。それは募集要項の中に、リカルド・エイデンと言う人物以外に求人の件で来訪した旨を説明しないようにと記されていたからだ。口が固く、秘密は必ず保持するイレーネらしい行動だった。「平日の十時から十七時までの間でしたら、お会い出来るということで伺ったのですがリカルド・エイデン様はおいででしょうか?」イレーネは丁寧にもう一度尋ねた。「……」年若い令嬢を不躾に見るのは失礼かと思ったが、フットマンはイレーネをじっくり観察した。(この女性……あまり良い身なりはしていないけれど、佇まいや話し方には品がある。それに時間指定までしてきているし、何よりリカルド様のフルネームを知っている……そう言えば、以前にも何人か女性が尋ねてきたことがあったようだと他の仲間からも聞いているしな……)以前にも、リカルドを訪ねて何人か女性がこの屋敷を訪ねてきたことは聞いていた。とりあえず、屋敷の中に招いた後でリカルドの判断を仰ごうと決めた。「それでは確認してみますので、どうぞこちらへ」まさか、それだけで受け入れてくれるとは思ってもいなかったイレーネは嬉しさのあまりに笑みを浮かべた。「本当ですか? ありがとうございます」「いえ、ではどうぞこちらへ」「恐れ入ります」そしてイレーネはフットマンに案内されて屋敷の中へ招かれた。(すごい……内装もとても立派なお屋敷だわ。ここで働けたらどんなにかいいのに)フットマンの後ろを歩くイレーネは周囲を見渡した。本当は色々質問したいのだが、自分がこの屋敷へ来た理由をうっかりしゃべってしまいかねない。そこでおとなしく案内され、応接間に通された。「申し訳ございません。こちらで少々お待ちいただけますか?」「はい、待たせていただきます。お忙しいところ、案内していただき感謝いたします」ニコニコ笑いながらイレーネはフットマンに感謝の言葉を述べた。「いえ、それでは失礼いたします」フットマンもイレーネにつられ、丁寧に挨拶すると応接間を出た。―――パタン「一体、あの女性は誰だろう……? 感じも良かったし、何
「リカルド様!」フットマンは倉庫の扉を開けるも、そこにリカルドの姿はない。いるのは2人の若い男性使用人たちのみだった。「どうしたんだ?」「リカルド様ならいないぞ?」「ええ!? い、いない? どこへ行ったんだ!?」その言葉にフットマンは目を見開く。「うん、発注ミスがあった業者の元へ自分で行くと話していたな」「俺達が行きましょうかと声をかけたんだけど」「そ、そんな……」フットマンが壁に寄りかかったとき――「大変だ! 枯れ葉を集めて燃やしていたら、物置小屋に燃え移ってしまった! 人手が足りないから応援に来てくれ!」別のフットマンが倉庫に飛び込んできた。「「「何だって!!!」」」「大変だ!」「こうしてはいられない!」「早く行こう!!」こうして4人のフットマンたちは火を消す為に、大急ぎで物置小屋へ向かった。もちろん、その頃にはイレーネの存在が忘れられてしまったのは言うまでもなかった。**一方、その頃のイレーネは……。応接間に通されてから、既に2時間が経過していた。始めの頃は、応接間のインテリアを感心した様子で眺めていたイレーネだった。けれどそれにも飽きてしまい今は一人ソファにぽつんと座り、置き去り状態にされていた。「それにしても随分時間がかかるのね……やっぱり、突然押しかけてしまったからなのかしら……?」壁に掛けてある時計を見つめながら、イレーネはため息をついた。「……喉も乾いたし、お腹も空いてきたわ……こんなことならこのお屋敷に着く前に、どこかで軽く食事でもするべきだったかしら……」言葉にしてみたもののお金に余裕が無いイレーネに外食など、所詮贅沢でしか無かった。それよりも今は帰りの汽車の心配のほうが勝っていた。「どうしましょう……あまり遅くなっては帰りの汽車が無くなってしまうわ。かと言ってホテルに泊まれるはずも無いし……そうなったら図々しいお願いかもしれないけれど、このお屋敷に泊めていただくしか無いわね。頼み込めばきっと何とかなるでしょう」呑気なイレーネはそう割り切った途端、強烈な眠気に襲われた。「……何だか、眠くなってきたわ……遅くまで起きて服を仕立てていたから……」ウトウトしながら、必死で意識を保とうとしたものの……ついにイレーネは背もたれに寄りかかったまま、眠りについてしまった――****――午後4時半
リカルドは今、応接間の扉の前に立っていた。「まさか……本当に、この中で私を待っているのだろうか……?」ゴクリと息を呑み、リカルドは扉をノックした。――コンコン「……」少しの間、待ってみるが何も反応は無い。「やはり、いないのだろうか?」念の為にもう一度、今度は声をかけながらノックすることにした。――コンコン「失礼いたします」けれど、やはり反応は無い。「何だ、やはりもう帰っているのか」胸をなでおろしながら、リカルドは扉を開け……目を見開いた。「え!?」太陽が差し込む部屋の中に、ソファに座ったまま居眠りをしているイレーネの姿がリカルドの目に飛び込んできた。「こ、この方は……一体……?」リカルドは驚きながら、応接間の中に入った。居眠りをしているイレーネのブロンドの髪が太陽の光に照らされてキラキラと輝いている。その姿はまるで天使のように見えた。(まさか、本物の天使では無いよな……?)そこで恐る恐るイレーネに声をかけた。「あの……御令嬢?」それでもイレーネは目を覚まさない。「すみません、御令嬢」困ったリカルドは再度、イレーネに声をかける。すると――「ん……」長い睫毛を震わせ、イレーネがゆっくり目を開けた。目を覚ましたばかりの彼女は半分寝ぼけている。突然目の前に現れたリカルドに驚くこともなく、挨拶をした。「……あら……どうも、こんにちは……」「ええ、こんにちは。私をお待ちだったとフットマンから聞いたのですが……それは本当のことでしょうか?」そしてリカルドは笑みを浮かべる。「えっと……?」そこでイレーネはようやく頭がはっきりし、慌てて立ち上がると謝罪の言葉を口にした。「あ……! このお部屋の居心地があまりに良かったものですから、うたた寝をしてしまいました。大変申し訳ございません!」「いえ、それは私がお待たせしてしまったからですよね? それで……どのくらい、お待たせしてしまったでしょうか……?」リカルドは恐る恐る尋ねた。「そうですね……? 5時間程でしょうか……?」「ええ!! 5、5時間ですか!! そ、そんなにお待たせしてしまったのですか!?」あまりのことに、リカルドは身体がのけぞるほどに驚く。けれど、イレーネは気にもとめずに話しかけた。「あの、もしや……あなたがリカルド・エイデン様でしょうか?」「え、
「あの、どうかしましたか?」イレーネはリカルドに見つめられ、首を傾げた。「い、いえ。何でもありません。それでは遅くなりましたが、面接を行いましょうか? どうぞ、もう一度お掛け下さい」「はい、それでは失礼いたします」丁寧に返事をすると、イレーネは再びソファに腰掛けて背筋を伸ばす。その様子を見届けるとリカルドも向かい側のソファに腰掛けた。「それではまず紹介状を見せていただけますか?」「はい、どうぞ」イレーネはショルダーバッグから封筒に入った紹介状を取り出すと、テーブルの上に置いた。「それでは拝見いたします」開封すると、リカルドは紹介状にじっくり目を通し……顔を上げた。「なるほど、イレーネさんは男爵令嬢なのですね?」「はい、そうです。ですが……お恥ずかしいお話ではありますが、男爵とは名ばかりです」その言葉にリカルドは改めてイレーネを見つめる。(確かに着ているドレスも鞄もかなり流行遅れではあるな……あまりお金に余裕は無いのだろう)「それで、イレーネさんが今回、こちらの求人に応募したことは職業紹介所の人以外はご存知ないのですか?」「はい、もちろんです」「ご家族もですか?」するとイレーネは首を振った。「いいえ、家族はいません。唯一の肉親である祖父も半月ほど前に亡くなり、今は完全にひとりですので」「え? そうだったのですか? それは……大変御苦労されたのですね……でも、これはある意味好都合かも……」疲れていたリカルドは、うっかり本音を口にしてしまった。「え? 何かおっしゃいましたか?」「いえ、こちらのことです。では、今一人で暮らしていらっしゃるのですね?」「はい、そうです」「それで……これが一番重要な質問なのですが、募集要項にもありましたがイレーネさんには婚約者、もしくは結婚を約束したような方はいらっしゃいますか?」「いえ、そのような方はおりません」そこだけはしっかり強調するイレーネ。「なるほど……」リカルドは考えた。(口も固く、落ちぶれているとは言っても男爵令嬢。それにしっかり教育も受けているようで素養もありそうだ。あれだけ長い時間放置されていたにも関わらず苛立つこともない。何より、天涯孤独の身であるならば……)そしてチラリとイレーネを見つめ……口を開いた。「イレーネさん。実はこの求人は最近出したばかりなのですが、
「しかし……本当に一人で出かけてしまうとは……」ルシアンは2階にある書斎の窓から、イレーネが門を目指して歩く後ろ姿を見つめてため息をつく。「ええ、全くイレーネさんの行動には驚きです。馬車まで断るのですから」リカルドの顔にも心配そうな表情が浮かんでいる。「だが、馬車を出すように命じるにも……説明できなかったしな……早いところ全員に彼女を紹介しなければ……」しかし、あくまでこれは1年間の契約結婚。そんな相手を使用人たちに堂々と自分の結婚相手だと説明しても良いものかどうか、ルシアンは悩んでいた。「もう、事実は伏せて結婚相手だと伝えるしか無いのではありませんか? それに……」「それに? 何だ?」途中で言葉を切ったリカルドにルシアンは尋ねる。「いえ、何でもありません。さて、それでは外出準備を始めましょうか?」「ああ、そうだな。先方を待たせるわけにはいかないからな」ルシアンは立ち上がると、書斎机に向かう。その姿を見つめながらリカルドは思った。ひょっとすると、この結婚は本当の結婚になる可能性もあるのではないかと……。**** その頃、イレーネは――「どうもありがとうございました」辻馬車で駅前に到着したイレーネは馬車代を支払うと、『デリア』の町に降り立った。「本当に、この町は『コルト』と違って大きいわ……」辺を見渡せば、大きな建物が綺麗にひしめき合っている。町を歩く人々も大勢いた。「さて、ひとりで町へ出てきたのはいいけれど……洋品店は何処にあるのかしら」キョロキョロと周囲を見渡す。「町へ出れば、何とかなると思ったけど……交番で尋ねてみようかしら……」そこまで言いかけ、首を振る。「いいえ、迷惑はかけられないわ。自分で何とかしましょう」そしてイレーネはひとりで洋品店を探すことにした。**「まぁ、なんて美味しそうなケーキ屋さんかしら。あら? あの店は本屋さんだわ。あんなに大きい本屋さんがあるなんて、流石は大都市『デリア』ね」あれから30分程の時間が流れていた。今や、イレーネは本来ドレスを新調するという目的を忘れて町の散策を楽しんでいた。「あら? ここは雑貨屋さんかしら?」ショーウィンドウにへばりつくように、窓から店内の様子を伺っていると女性たちの会話が近づいてきた。「それでこの間ルシアン様に会いに行ったのに、外出中で会えなか
それからきっかり1時間後――イレーネはリカルドの案内でルシアンの書斎にやってきていた。「イレーネ嬢、わざわざ足を運ばせてすまないな」書斎に置かれたソファに向かい合わせで座る2人。「いいえ、どうぞお構いなく。丁度暇を持て余していたところでしたので。いつもなら庭で畑作業をしている時間でして……お恥ずかしいことに時間の潰し方を良く知らないものですから」「な、何だって? 畑仕事?」その言葉に耳を疑うルシアン。「はい、そうです。食費を浮かす為に家庭菜園をしておりました。幸い、庭がありましたので季節ごとに様々な野菜を育てていたのですよ? 今の季節ですと、玉ねぎ、人参が収穫できます。採れたての野菜は甘みもあって、とても美味しいんです」「そ、そうだったのか……?」傍らに立つリカルドはハンカチで目頭を押さえている。「……うっうっ……ほ、本当に……なんて健気なイレーネさん……」その様子を半ば呆れた眼差しで見つめていると、イレーネが声をかけてきた。「あの、それで私にお話というのは?」「あ、ああ。そのことなのだが、イレーネ嬢に支度金を払おうと思って呼んだのだ」「まぁ……支度金ですか?」イレーネの目がキラキラ輝く。「そうだ、そのお金で服を新調するといい。さて、何着あればいいだろうか……?」「3着もあれば十分です」「な、何!? たったの3着だと!?」「はい、外出着は3着もあれば十分です。勿体ないですから。普段の服は私が持ってきたもので十分ですし」「イレーネ嬢、それは……」ルシアンが言いかけるよりも早くリカルドが反応した。「いいえ! それは駄目です! イレーネさん! 3着と言わず、その10倍……いえ、100倍は作るべきです!」「何だって!? 300着もか!?」これには流石のルシアンも目を見開く。「まぁ! 300着ですか? いくら何でも300着なんて無謀です。本当に、最低限揃えてもらうだけで十分なのですが……」遠慮するイレーネにリカルドは畳み掛ける。「イレーネさん。マイスター伯爵家は、とっても大金持ちなのですよ? 何しろ世界中に取引先がある貿易会社を営んでいるのですから何の遠慮もいりません。欲しいものはどんどん仰って下さい!」「お、おい……! リカルド、お前は一体何を勝手なことを……!」そこまで言いかけた時、ルシアンはこちらをじっと見つ
食後の紅茶を2人が飲み終わる頃、ようやくリカルドがダイニングルームに戻ってきた。「リカルド、お前は今まで一体何処に行っていたのだ?」ルシアンがじろりと睨みつける。「はい、それが……厨房に顔を出して、2人分のお食事を用意して貰いたいと伝えたところ……その場にいた使用人達に囲まれてしまいました。それで、イレーネさんのことを根掘り葉掘り尋ねられてしまって……」「何だって……それで何と答えたんだ?」「そ、それは……」リカルドは興味津々の眼差しで自分を見つめるイレーネに視線を移す。「私の口から無責任なことを伝えるわけにはいかないので、ルシアン様から後ほど直接話があるので待つように伝えました」何とも無責任な台詞を口にするリカルド。ルシアンが切れたのは言うまでも無い。「リカルド! それでは俺に全て丸投げしているも同然じゃ……」そこでルシアンは口を閉ざす。何故ならイレーネがじっと自分を見つめていたからだ。女性の前で声を荒げることをしたくないルシアンは、ゴホンと咳払いをするとリカルドに命じた。「リカルド。イレーネ嬢は紅茶を飲み終えたようだし……ひとまず今は部屋に案内してあげてくれ。そうだな……1時間後、俺の書斎に来て欲しい。まだまだ話し合わなければならないことが山積みだからな」「はい、かしこまりました。私が責任を持ってイレーネさんをお部屋までご案内します」笑顔で返事をするリカルドにルシアンは釘を刺す。「言っておくが、お前にはまだ言いたいことが残っている。イレーネ嬢を部屋に案内したらすぐにここへ戻ってこい」「はい……」落ち込んだ様子で返事をするリカルド。そこへイレーネが会話に入ってきた。「ルシアン様、私なら大丈夫です。部屋の場所は覚えているので1人で戻れます」「いや、しかしだな……万一、リカルドのように使用人に捕まってしまえば……」ルシアンは言葉を濁す。「そのことなら御安心下さい。私、こう見えても口は固いです。何か問われても、ルシアン様から伺って下さいと伝えますから」「そ、そうか……?」引きつった笑いを浮かべるルシアン。(やはり、2人とも……俺に全て委託するというわけだな……)「分かった。では申し訳ないが……イレーネ嬢は一旦席を外してくれ。リカルドと2人で話をしたいからな。そして1時間後、今度は俺の書斎へ来てくれないか」「はい、ル
(何だか……今朝は随分給仕の人数が多いな)ルシアンはダイニングルームで給仕をする使用人たちを見渡した。普段なら給仕の人数は1人、ないし2人。それなのに今朝に限っては違った。2人のフットマンに、3人のメイドまでいるのだ。全員、明らかにイレーネを意識しているのは明白だった。「紅茶はいつお持ちしますか?」メイドがイレーネに尋ねる。「そうですね、ルシアン様はいつお飲みになっておりますか?」突然話をふられたルシアンは戸惑いながらも答えた。「え? 俺は普段は食後にもらっているが?」(あのメイドは何故そんなことを聞いてくるのだ? 普段は何も言わずに食後に紅茶を淹れてくるはずなのに! 大体、どこで俺とイレーネ嬢が朝食を一緒にとることがバレてしまったんだ? リカルドは何をしている!)一言、リカルドに文句を言ってやりたいところだが肝心の彼は生憎不在だ。(くそ! ここ最近、勝手な真似ばかりしおって……後で呼び出して説教してやらなければ……!)ルシアンのどこか落ち着きのない様子をみて、イレーネが首を傾げる。「ルシアン様、どうかされたのですか?」「え? あ……何でも無い。ただ……何故、今朝に限ってこんなに給仕が集まっているのか不思議に思ってな」その言葉に、使用人たちが一斉に肩をビクリとさせる。「もう、全ての料理を並べ終えたのだろう?」傍らに立っているフットマンに尋ねるルシアン。「は、はい。ルシアン様。食事は全て提供させていただきました」「そうか……なら、お前たちはもう席を外してくれ。彼女と2人きりで食事をしたいからな」ルシアンはゆっくり、全員の顔を見渡した。「分かりました……それでは我々は一旦席を外させていただきます……」使用人たちはチラチラとイレーネに視線を送りながら、ダイニングルームを出て行った。――パタン扉が閉じられるとルシアンはため息をついた。「全く……好奇心旺盛な使用人たちだ。さて、それでは食べようか」「私も好奇心旺盛ですよ? それにしてもこのマイスター家には大勢の人たちが働いていらっしゃるのですね。私の働く隙もないほどです。……まぁ! 本当にこちらのお食事は美味しいですね」料理を口にし、笑みを浮かべるイレーネ。「そうか、口にあって何よりだ。だが、メイドの仕事は考えないでくれ。君の役目は俺の妻を演じることなのだから。実は……
翌朝7時。リカルドはイレーネの宿泊している客室の前に来ていた。「さて……イレーネさんは起きていらっしゃるだろうか……?」コホンと咳ばらいをすると、早速扉をノックする。――コンコン「イレーネさん、起きていらっしゃいますか?」すると軽い足音が扉に近づき、音を立てて開かれた。「おはようございます、リカルド様」白いブラウス。モスグリーンのベストにロングスカート姿のイレーネが姿を見せた。「はい、おはようございます。……もう、すっかり朝の支度は出来ていたのですね?」地味な服装のイレーネを見つめながらリカルドが挨拶する。「はい、そうです。5時に起床しました」「ええ!? 5、5時ですか!? 何故そんなに早く起きられたのですか?」あまりにも早い時間にリカルドは目を丸くした。「はい、いつもの習慣でつい目が覚めてしまったのです。『コルト』に住んでいた頃は朝食の準備があった為に毎朝5時おきだったので」「朝食の準備……? 一体何のことでしょう。とりあえず歩きながらその説明を聞かせていただけますか? ダイニングルームへご案内しますので」「え? ダイニングルームへですか?」「はい、そうです。そこで……」「私が給仕を務めればいいのですね?」「は? い、いえ! とんでもありません! イレーネさんはルシアン様の妻になる方ですよ!? そんな真似させられるはずないじゃありませんか!」そのとき――ガタッ!!背後で大きな音が聞こえ、イレーネとリカルドは振り向いた。しかし、そこにあるのは大きな観葉植物のみで人の気配は無い。「……妙ですね? 今音が聞こえた気がしたのですが……」リカルドが首を傾げる。「はい。私も聞こえましたが……気にしても始まらないので、ダイニングルームへ行きませんか?」イレーネの頭の切り替えは早い。「そうですね。ではダイニングルームへ参りましょう。先ほど、何故毎朝5時に起きていたのかお話を聞かせて下さい」「はい、リカルド様」そして2人は並んで歩きながら、ダイニングルームへ向かった――****「おはようございます、ルシアン様」ダイニングルームには一足先にルシアンが待っていた。「おはよう、イレーネ嬢。昨夜はゆっくり寝られたか?」「はい、あんなに素敵なお部屋を貸して頂けるなんて夢みたいでした。私にはもったいない限りです」ニコニコ
「一体何なんだ? その募集要項は。 二十四時間体制だが、基本夜の勤務は殆ど無い? けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せだとは。このような内容では誰だって勘違いするに決まっているだろう!? お前は俺を獣扱いしているのか! 一体どういうつもりでこんなことを書いたんだ!」ルシアンは肩で荒い息を吐きながらまくしたてた。「そ、それはですね。ほら、アレです。時には王侯貴族の親睦を深める目的で夜会などが開かれることがあるではありませんか?」「ああ、あるな。それがどうした?」「そうなると、結婚しているのであれば夫婦そろって出席を求められるのは当然のことですよね?」「確かにその通りだが……まさかその意味合いで二十四時間体制、時には夜勤が入ると書いたのか!?」ルシアンはワインの瓶を掴むと、勢いよくグラスに注ぐ。「はい、その通りです……」「な、何てことだ……イレーネ嬢が勘違いするのは当然じゃないか! これでは契約妻に夫婦生活を強要するような最低な男としてとられてしまったに決まっている!」ルシアンはグラスを握りしめると、まるで水のようにワインを一気に飲み干した。「落ち着いて下さい。ルシアン様、そんなに乱暴な飲み方ではお身体に障ります」「誰のせいで、落ち着けないと思っているんだ! 絶対、彼女は俺に不信感を抱いているに違いない……何がまた明日会おうだ! もう顔向けできないじゃないか……」どこまでも生真面目なルシアン。酔いがすっかり回っていた彼はリカルドにイレーネの誤解を解くように説明したことなど忘れていた。「それなら大丈夫です、ご安心ください。イレーネ嬢は決して怪しい意味合いではとらえておりませんでした。流石は私の見込んだ女性のことだけありました!」「何だと……? 一体それはどういう意味だ……?」顔を赤く染め、半分目が座っているルシアンがリカルドを見上げた。「はい、イレーネさんは夜の夫婦生活のことを想定してはいなかったのですよ。メイドとしての夜勤があるのかと思っていたのです。それで、あのようなことを尋ねられたのですよ」「そうだったのか……? そう言えば、イレーネ嬢は契約妻兼メイドの仕事をするものだと勘違いしていたな……」「ええ、そうです。なので、誤解を解くまでも無かったのですよ。何しろ初めから誤解されていたのですから」「初めから誤解だったから、誤解を
「リカルド……夜のお勤めとは……一体どういうことだ?」ルシアンが口元に笑みを浮かべながらリカルドを見る。しかし、目は少しも笑っていない。これが一番マズイ状況であるということを、リカルドは知り尽くしている。「ル、ルシアン様……こ、これはそう! 誤解、誤解なのです!」「ほう? 誤解? 一体どんな誤解なのだ? 詳しく教えて貰おうじゃないか? だがその前に……」ルシアンはイレーネに視線を移す。「イレーネ嬢」「はい、何でしょうか? ルシアン様」「もう、メイドの仕事はしなくていい。とりあえず、今日は休むといい。リカルドに客室を案内させよう」「はい、ルシアン様!」(やった! この場から逃げられる!)リカルドは喜々として返事をするが、次に告げられたリカルドの言葉に冷や水を浴びせかけられる。「いいか? イレーネ嬢を客室に案内したら、ここへ戻ってくるように。分かったか?」ジロリと睨みつけられるリカルド。「は……はい! で、ではイレーネさん。参りましょう」「はい。では失礼致します、ルシアン様」イレーネは立ち上がると、挨拶した。「ああ、明日また会おう。……リカルド」「はい! ルシアン様!」リカルドは背筋をピンと伸ばす。「……イレーネ嬢の誤解をきちんと、解くのだぞ。責任を持ってな」「も……勿論です」こうして、奇妙な動きを見せるリカルドに連れられてイレーネはダイニングルームを後にした。「……全く」ダイニングルームに1人残ったリカルドため息をつき、すっかり冷めてしまった料理を口にした。「……生ぬるいスープだ……」そして再びため息をついた――****1時間後――「ルシアン様、戻りました……」ビクビクしながらリカルドがルシアンの待ち受けるダイニングルームに戻ってきた。すっかりテーブルの上が片付けられ、今はルシアンの飲んでいるワインとグラスだけが置かれている。「ああ、戻ったか。イレーネ嬢に客室を用意したのか?」「ええ、勿論です! 前回よりも素晴らしい客室にご案内致しました! メイド長にもイレーネさんのことを伝えてまいりました。それに使用人部屋に置かれた荷物も客室へ運びました!」リカルドは説教を恐れ、媚びを売るように揉み手をしながら返事をする。「そうか……」ルシアンは手元のワインを煽るように一気に飲み干すと、乱暴にグラスを置いた。
「イレーネ嬢……」自分のテーブルの前に料理を並べていくイレーネにルシアンは頭を抑えながら声をかけた。「はい、何でしょうか? ルシアン様」スープ皿を置いたイレーネがにっこり微笑む。「一体、その恰好は……何だ?」「あ、このメイド服ですか? これは先輩のジャックさんが用意してくれたんです。素敵なメイド服で、とても気に入りました」濃紺のロングワンピースに、フリルの付いたエプロン姿のイレーネはジャックの名前を出した。自分の名前が出たジャックは、まんざらでもない様子で給仕を務めている。「い、いや。俺が尋ねているのはそういうことでは無くてだな……」「あ、ルシアン様。今置いたこちらのスープは熱いので火傷にご注意下さいね」「ああ、ありがとう……って違う! そうじゃない!」危うくイレーネのペースに巻き込まれそうになったルシアンは、激しく首を振る。「ど、どうなさったのです? 落ち着いて下さい。ルシアン様」イレーネが見つかったことで、すっかり余裕のリカルドがルシアンに声をかける。「いいか、イレーネ嬢。俺が言いたいのは、そういうことではない。何故、君がメイドとして働いているかと言う事だ。誰かにメイドとして働くようにそそのかされたのか? ひょっとして、ジャックという者の仕業か!?」ルシアンの言葉に、ビクリとジャックの肩が跳ねる。(どうか……どうか、俺がジャックだということがルシアン様にバレませんように……!)マイスター家には大勢の使用人が働いている。そしてジャックはまだこの屋敷で働き始めて1年目。当然、ルシアンはジャックの顔を知らない。「いいえ? ジャックさんは、そのような方ではありません。とても親切な人で、丁寧に仕事を教えてくれます」少し、ズレたところのあるイレーネはルシアンの質問に見当違いな返答をする。「そうか。やはりジャックの仕業なのだな? 親切にメイド服を貸してくれたというわけか?」そこへ嚙み合わない2人の会話に、リカルドが割って入ってきた。「落ち着いて下さい、ルシアン様。ジャックがそそのかしたと疑うのは時期尚早ではないでしょうか?」リカルドがルシアンを宥めながら、ジャックに早く退散するように目配せする。「で、では私はこれで失礼致します」ジャックは、逃げるようにダイニングルームを飛び出した。自分はクビになってしまうのではないかという恐
――午後7時、ダイニングルーム。「一体どういうことだ……? 未だにイレーネ嬢が訪ねて来ないなんて……」テーブルの前に着席し、手を組んで顎を乗せたルシアンがためいきをついた。「ルシアン様……確かに私も心配でたまりませんが、まずは夕食をお召し上がりになって下さい。よくよく考えてみれば、イレーネさんは本日ここへ来るとは話されていましたが、時間までは仰っていませんでした。もしかすると、もう間もなくこちらへいらっしゃるかも……しれませんよ?」リカルドは笑顔で声をかけるも、内心では焦りがピークに達していた。(まずいまずいまずい! これは非常にまずいぞ!! ひょっとしてここへ来る道中、何かあったのではないだろうか? イレーネさんは可愛らしい外見だし、おっとりしてはいる。もっとも言い方を変えれば、世間より少しズレている感じがある。片田舎出身であるが故に、都会に潜む悪い連中に騙されて何処かへ連れ去られてしまったのではないだろうか!? そうなったら……全てこの私の責任! ああ……今にも胃に穴が空きそうだ……)少々失礼な物言いで、イレーネの身を案じる。「何かあったのではないだろうか……?」ポツリと呟くルシアンの言葉に、思わず肩が跳ねそうになるリカルド。「落ち着いて下さい、ルシアン様。まずは紅茶でも飲んでみてはいかがですか?」胃痛に耐え、震える手でリカルドはカチャカチャと紅茶を入れ……。カチャン! 手が滑ってソーサーの上に音を立ててカップを置く。そしてそんな様子をじっと見つめるルシアン。「……リカルド」「はひ? な、何でしょう?」リカルドは思わず上ずった声で返事をする。「落ち着くのは……むしろ俺よりもお前の方ではないか?」「い、いえ。何を仰っているのですか? 私はとても落ち着いておりますよ。大丈夫です、きっともうすぐイレーネさんはこちらにいらっしゃるはずですとも……あの方を信じて待ちましょう……」まるで自分に言い聞かせるかのように語るリカルド。そこへ――「ルシアン様、夕食をお持ちしました」フットマンがワゴンを押してダイニングルームへ現れた。「何? 食事だと? こんな一大事のときに食事など出来るか……え……?」眉間に皺を寄せたルシアンはフットマンを見上げ……次に驚愕で目を見開いた。 何と、フットマンの背後にはメイド服姿のイレーネがいたからだ。彼